もう少し掘り下げて考えてみる。

「核兵器の開発に携わった科学者たちは、そのとき何を思っていたのか」

ということをよく考えるようになった、と書いたが、
このことについてもう少し掘り下げてみようと思う。

核兵器開発から実際のヒロシマ、ナガサキへの投下に至るまでには、
以下のようなプロセスがある(と考える)。

1. 核分裂反応という原理を発見する
2. 原子爆弾という兵器の概念を考案する
3. 実際に原子爆弾を製造する
4. 原子爆弾を実際に使用する

4段階に分けたが、さて、どの段階まで科学者は責任を持つべきか?
例えば、核分裂反応を発見したマイトナーは(1.)、
原子爆弾の投下という行為(4.)に対して責任を問われるべきか否か。

この点については意見が分かれるだろうが、とりあえずそれは置いといて、
科学者集団がどの時点でブレーキをかけるべきだったのか、
ということを考えてみる。

1.は科学を追及する限りいずれは誰かが見出すことで、
それは2.についても同様といえる。
ならば3.の時点でブレーキがかかるべきで、
実際、そのような行為が可能かどうかについていえば、
それは可能である、と言い切れると思う。

例えば、人間のクローンを製造しようとする試みは、
倫理上問題があるということで世界的に禁止されているが、
これはまさに2.と3.の間で歯止めがかかっている例になる。

具体的には、ある濃度以上のウラン濃縮を禁止する、
プルトニウムの抽出を禁止する、といったことで、
原則核兵器の開発は不可能になる。

まあ本来はそうするべきだったのかもしれないし、
当時の科学者もそう考えていたのではないか、と想像するのだが、
ここで「世界大戦」という特殊な状況を加味すると、話が面倒なことになる。

おそらく、マンハッタン計画に携わった科学者に
ある程度共通していた認識として、

・我々が核兵器を開発しなくても、おそらくソ連(かドイツ)が開発するだろう
・核兵器およびその関連技術の国際的管理が必要
・ならば我々が先に開発し、その主導的立場に立つべき

というのがあったようである。

彼らの中には、実戦への核兵器の使用は行わず、
示威行為によって、つまり、人的被害のない形で核兵器を使用し、
その威力を誇示することによって敵国を降伏させるべきだ、
という意見があったことが、先の著書では事実として記されている。

結局それはいくつかの理由で聞き届けられなかった上に、
ヒロシマへの投下のたった3日後にナガサキへ投下するという、
およそ降伏させる猶予も与えない卑劣な攻撃が行われたわけだが、
その点に関しては、科学者は全く無力であったといわざるを得ない。

科学者はこの顛末を歓迎したのだろうか?

「マッドサイエンティスト」という言葉があるが、オッペンハイマーは後に、
「核兵器開発は技術的に甘美だった」とも語ったという。
しかし、科学や技術開発にとり憑かれた人間が核兵器を開発した――
という単純なストーリーはナンセンスだと私は考えている。
もちろん、そういった要素は皆無なのか?
といえば、それはノーかもしれない。

しかし、科学にとり憑かれて人間性を失う、なんてことはなく、
むしろ思索が広がることによって、自分の生み出したものが
社会に何をもたらすのかを強く認識できるようになるはずで、
だからこそ、核兵器を開発せざるを得ない――
と彼らが認識するような状況になってしまったのではないか。

彼らはおそらく、開発している段階で、これが世界を
破滅に導きうるものであることを明確に認識していただろうし、
しかし――いや、だからこそ、これを誰よりも早く開発することが
彼らにとっての正義だったのではないかと思う。
ただ、結果として、それが彼らの思うような結果には
まったく至らなかった、というだけのことで。

別に核兵器を開発した科学者に責任がないと言いたいわけではないが、
マンハッタン計画が仮に頓挫していたとしても、
おそらく別の形で似たような顛末を迎えたのではないだろうか、
と私は考えている。

――とまあ、そんなことを考えたわけだが、
こうしたことを全てひっくるめてひとつに表現するならば、
「科学や科学技術は常に社会に強く影響を受けるし、
そのことを科学者も非科学者もよく理解しておかなければならない」
ということになる。

しかし、どうにも我々はその重要な事実を忘れがちではないか?
大昔のガリレオ・ガリレイの時代からそれは全く変わっていないというのに、
それを無視して科学の客観性、有用性、完全性といったものを
殊更に強調するのは良くない! ――と、
私はこの無駄に長ったらしい独り言を通じて言いたかったわけである。

科学は確かに客観性を重視するものだが。
それは時に客観性を失うこともあるだろうし、
実証科学においてはそれはまた必然でもある。
有用であることもあれば、かえって不利益を生じることもある。
完全性を追及してはいるが、科学の追及は逆説的に
不完全な部分をひたすら明らかにしていくものであるとも言い換えられる。

そうしたことをまず一番最初に認識することが、
科学リテラシーの醸成には必要なのではないか。

先日のアメリカへの渡航中、横に座っていた老いた研究者らしき人物が
「People doesn't understand technology.」と語ったことが
記憶から離れないのだが、「科学と社会」のあるべき関係というのは、
おそらくそうしたところから始めなければならないのだと思う。


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火:75.4kg

一気に減った。

この記事へのコメント

にゃも
2012年08月21日 23:30
自分で書いておいてなんだが、もう少し「科学」と「科学技術」を切り分ける必要があるな。科学技術とは、science and technologyではなく、science based technologyの意。

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